忍者ブログ
| 悪魔ナルアンソロジーのご案内 | アンソロジー詳細&通販 | |      
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


   誘惑の紅茶


「チョコレートを食べないか?」
 日課となった就寝前の祈りを捧げるべく、冷たい床に膝をついて目を閉じた麻衣の耳に聞こえてきたのは、ありえないことに男の声だった。
 目を閉じる前に見た限りでは、この部屋には確実に麻衣一人しかいなかった。そもそも、麻衣がいま住んでいるのは女子修道院の見習い部屋で、男性の声が聞こえること自体が異常である。
 おそるおそる顔を上げると、ぞっとするほど美しい男が一人、壁にもたれて立っていた。

   ***

 唯一の肉親だった母親を失った時、麻衣は修道女として生きることを選んだ。
 学校の教師や友達は皆驚いていたが、それぞれ天涯孤独だった両親の間に生まれ育ち、誰一人として係累のいない身では、麻衣にはそれ以上普通の人生——学校を出て、社会人になって、結婚して——が想像できなくなった。
 と言っても、麻衣自身はそれまで特にキリスト教と縁のある生活を送ってきたわけではない。幼い頃に父を失い、母子家庭で育った麻衣は、幼稚園から中学校までキリスト教系の学校に通ったことは一度もない。
 にも関わらず、麻衣がキリスト教を頼ったのは、母親が息を引き取った病院にボランティアで来ていた神父の優しさに触れたからだった。

「麻衣さん、元気を出しておくれやす」
 外国から来た神父は柔らかい関西弁を話し、金髪と青い目をしていた。麻衣は、医師に対しても看護婦に対しても気丈に振る舞っていたが、外見も言葉も『遠い世界から来た』感じがする神父だけに本音をぶつけることができたのだ。「寂しい」と。
「寂しかったら、いつでも来てください。教会の扉はいつでも開いてますよって」
 麻衣は、神父にもらった紙片に記された教会に、次の日曜から通うようになった。

 こうして、麻衣は出願していた公立高校の受験を辞退し、中学校卒業まで教師の家に身を寄せた後、神父の紹介状を手に、故郷を遠く離れた修道院へと旅立ったのだった。

   ***

「腹が減っているんだろう」
「な、なんで知ってるの?!」
 確かに、お腹は空いていた。麻衣は今日、午後の聖書購読中に居眠りした罰で、ただでさえ粗食の夕食を半分に減らされていたのだ。
 それに、甘いお菓子はずいぶんご無沙汰だった。故郷を旅立つ前日、中学の友人たちが開いてくれたささやかなお別れ会以来、粗食を旨とする修道院の食事しか食べていないのだから。チョコレートと聞いただけで、麻衣の口の中には一気に唾液が溢れてきた。
「どうする?食べるか?」
 男が微笑みを浮かべながら差し出した手の上には、小さなチョコレートの粒が載っていた。
「食べない」
 ごくり、と唾をのみ込んで、麻衣は首を横に振った。
 男の笑みはどこか胡散臭かった。あまりにも完璧すぎて、嘘くさいほどに穏やかで完璧な笑みだった。いい年をした麻衣が反射的に逃げ出したくなるほど。
 第一、たとえ見掛けと違っていい人だとしても、見知らぬ男から貰ったものを食べるわけにいかない。
「なぜ?甘いチョコレート、好きだろう?」
 男がゆらり、と壁から身を起こした瞬間、麻衣は胡散臭さの正体に気が付いた。男の目が笑っていない。顔は間違いなく笑顔を浮かべているのに、目はどこまでも冷静なのだ。
「だって、あなたの笑顔ちょっと怖いし。それに」
 麻衣が正直に言うと、男は驚いたように僅かに目を見開いた。
「知らない人からもらったものは食べないの」
「へえ。猿よりは知恵があるようだな」
 男の顔から笑顔が消え、無表情になった。
「ところで、私がお腹空いてるって、なんで知ってたの?」
 胡散臭さがなくなったことで背筋の寒さが軽減されて、少し安心した麻衣が疑問を口にすると、男はシニカルな笑みを浮かべた。
「僕が悪魔だから」



PR
Powered by Ninja Blog Photo by ななかまど Template by CHELLCY / 忍者ブログ / [PR]